歴史を巡る~北海道から名古屋・仙台④ 「おくのほそ道、独眼竜政宗」
こんにちは、則武です。
旅の3日目からは仙台における「おくのほそ道」の足跡をたどり、併せて仙台藩特に伊達政宗にまつわる名所を巡ります。
旅を愛しこれを記録した松尾芭蕉は、我々の偉大なる先達。師匠、と呼ばせて頂きます。

最初に向かったのは、仙台城の北西に位置する「亀岡八幡宮」です。
古墳時代の第15代天皇・応神天皇と、その母・神功皇后らを祀るこの神社は、源義経が討ち取られ奥州藤原氏が滅亡した1189年に伊達宗家初代・伊達朝宗によって勧進され、世に言う「伊達騒動」によって家督を相続した仙台藩4代藩主・伊達綱村の時代・1681年にこの地へ移されたそうです。

1689年、師匠・松尾芭蕉と門人・河合曾良は江戸を出発し、1か月余りの旅を経てこの仙台に到着。そしてまだ造営されて日の浅かったこの八幡宮を訪れました。

「おくのほそ道」本文では触れられていないものの、随行記である「曾良旅日記」五月の中では以下のような記述があります。
六日 天気能。亀が岡八幡へ詣。

何と、今日も5月6日ではありませんか。しかも師匠たちと同じく、男2人で参りました。
旧暦と新暦の差があるので明確に同じ日ではありませんが、何という奇縁!まさに奇遇!

しかし、喜び勇んで進んだ我々を待ち受けていたのは、表参道の階段でした。
なかなか急で、しかもけっこうな高低差があります。とはいえまだこの時点では風情に酔いさほど気にしていませんでしたが…

階段を登った踊り場のような空間の先を見て、我々は言葉を失いました。
「な、何だこれ!?高過ぎる!急すぎる!」
恐ろしいまでの階段がそこにありました。上に何があるのか、さっぱり見通せません。
100段や150段ではきかなそうです。高さも数階建てのビルくらいあります。しかも傾斜が非常に急です。
師匠たちもこんなところを登ったのか?しかもスニーカーじゃなく草履で?それも国分町からここまで歩いてきて!?我々と歳変わらないのに?どんな体力してるの??

とはいえこうなれば行くしかありません。段数を数えながら登っていきます。
途端に息が上がります。100段上がって休憩しますが、平らな部分があまりありません。微妙に崩れているところもあります。
明らかに最近の階段ではありません。もしや当時のモノか?師匠たちと同じ階段を登っているのか?(あとで調べたらそうでした。江戸時代からのものだそうです)
私は高所恐怖症ではありませんが、振り返ると急傾斜に飲み込まれて身体が傾いてしまいそうで、とてもではありませんが振り返ることができません。意を決して、さらに先へ。

180段以上、一番下からだと200数十段登ったでしょうか。ようやく上まで着き眼下を見ると、ご覧のありさま。スキーで降りるにも勇気がいるような凄まじい光景です。

ところが何と、まだありました。さすがに神社は見えてきましたが、まだある…。愕然です。
後で調べると、かつては365段、今でも330段以上あるそうです。
師匠が訪れた頃の遺物は、最初の鳥居とこの石段のみの模様。石段は「出世階段」とも言われ、仙台では最も長い階段だそうです。そりゃそうだ。

そして遂に、ついに辿り着きました。師匠、のっけからこれはキツいです…。
お参りし、社務所で御朱印を頂戴してから、
「ど、どうやって車に戻る?」
「あれを下りるか?」
「いや、さすがにあれは怖すぎる」
「怖いもそうだが、これほどの位置エネルギーをこの水平距離で運動エネルギーに変換して下半身に受け止めたら、壊れるんじゃないか?」
「無茶すぎる、遠回りでも裏参道から帰ろう」
「そうだ、そうしよう」
こうして、「注文の多い料理店」の猟師二人よろしく軟弱者であることを惜しげもなく露呈した我々は、裏参道から出て坂道を下りることにしました。ちなみに裏参道を使うなら車でも上まで登ることは可能です。


しかし、その坂道もご覧の急傾斜。どれだけの勾配かは写真でもお判りでしょう。
背後のマンションは、坂の上だと3階が入口になっています。そんな大きい建物でもないのに…。
そして歩いていると、坂を上り下りする大学生らしい青年に出会いました。運動部恐るべし。

車へ戻った我々は、次に仙台城を目指します。
通りは緑の宝庫。さすがは杜の都・仙台。街路樹の素晴らしさは他に例を見ません。

山城である仙台城を目指して、坂を上ります。
路は登っては下り、左右に曲がりくねっています。
私は城を訪問する時、必ずその城を攻略する目線で見るのですが、
この坂の作りは城を目指す人間にとって悪路そのもの。
無駄に上り下りさせられて体力を奪われ、要所要所では上から攻撃を仕掛けられる可能性が大いにあります。
思えばかつて訪れた姫路城も、このように天守へ向かうルートは複雑怪奇で、しかも至る所から塀に空いた銃身を出す穴が見えていました。

しかし今回は車。無事本丸跡に辿り着きました。まずは宮城県護国神社に参拝。

お参りのあと御朱印を頂き、博物館へ。護国神社は戦没者を祀る神社なので、戊辰戦争から西南戦争、日清・日露戦争から二つの世界大戦まで、近代日本の歴史を綴る展示物を見ることができました。
特攻で亡くなった方に関する展示や、軍艦の模型に至るまで、様々なものを見て学ぶことができます。教科書なら数行で終わってしまう内容を、つぶさに感じることができる、たいへんよい展示でした。
そしていよいよ、仙台を一望できる本丸跡へ!


が、崖じゃないか!こ、これは攻撃不可能…!
仙台城がどこにあるかは、もちろん事前に知っていました。しかし、これほど高低差のある崖ギリギリにあったとは知らず。
崖下には広瀬川が流れ、その向こうにある広場で行われているイベントの声がここまで聞こえてきます。
ここから攻めようと思っても、下にいる軍勢は丸見えでしょうし、声もしっかり聞こえます。
おまけに川を渡らねばならず、その後は到底登れなさそうな崖が控えています。石でも落とせば簡単に撃退できそうです。
これが戦国の山城か…!


そして、伊達政宗像と対面することができました。地震で修理に入っていましたが、年度初め頃に戻って来たそうです。
伊達政宗については語るまでもないでしょうが、伊達家のみならずその家臣団も北海道開拓に深くかかわっています。
伊達政宗の片腕・片倉景綱の子孫は初代にあやかって代々小十郎を名乗り、幕末から明治にかけて北海道開拓を行いました。
何より札幌市白石区は片倉家の本拠地白石に拠るものであり、豊平・平岸・月寒・手稲といった地区も片倉家の当主が戸長を務めた地。私の祖先が入植した栗山も、角田からの入植者によって拓かれました。
伊達政宗公なかりせば、今の私はありません。


本丸の遺構も説明書きとともに見て回ることができます。
各部屋の大きさも畳の大きさで表示されており、実際にその場に立つことによって広さを実感できます。

そしてこの日最後に向かったのは、伊達政宗墓所「瑞鳳殿」。
師匠たち「おくのほそ道」一行は八幡宮のあと仙台城へ向かい、にわか雨に降られ茶室で時を待ちそのまま引き揚げたようですが、我々はさらにその先へ。
経ケ峯に墓所を築くよう命じたのは御本人だといいます。ここに来る前、ドラマ「独眼竜政宗」を視聴し、しっかり予習してまいりました。



そしてやって来たはいいのですが、
え?また急坂ですか?ここも登るのか…。
そういえば、さっき仙台城から川の向こう側に見えてましたね。

まずは入口にある「瑞鳳寺」へ。
山号は正宗山、臨済宗の寺院で伊達家の菩提寺です。墓所と同じく、二代藩主・伊達忠宗によって創建されました。

瑞鳳殿をはじめとした墓所は太平洋戦争で消失しましたが、昭和時代に再建。
その際の発掘調査で遺骨や副葬品が出土しています。
見学できる資料館があるのですが、伊達政宗本人の御遺骨の一部が展示されていました。
まさか殿に御目通りが叶うとは、恐悦至極に存じ奉ります。戦国大名御本人にお会いしたのは初めてです。


そしていよいよ霊廟の御前に。
落慶記念で御開帳されており、石室の直上に安置されている伊達政宗像を拝する機会に恵まれました。
建物こそ再建されたものですが、殿は間違いなくこの下でお休みになられています。
体育会系ながら風流でたいそうグルメな方だったと伺っていますが、いろいろとお話などしてみたいものですね。特に中部圏出身の御大将あたりをどのように思われていたのか…。

両脇には15人の殉死した家臣・陪審の塔が並びます。
4代将軍・徳川家綱の時代(1663年の武家諸法度改訂)に殉死が禁止されますが(明文化は5代将軍・徳川綱吉による1683年の改訂)、伊達政宗死去の1636年ではまだその文化がありました。ちなみにその前年・1635年の武家諸法度改訂では、参勤交代が制度化されています。

瑞鳳殿に向かい合うように存在するのが、満海上人供養碑です。
「儂は幼少の砌、満海上人の申し子と云われてのう…、その満海上人が生きながらに入寂されたのが、ここじゃ」
(「独眼竜政宗」第50話より)

「あぁ、ここは極楽じゃ。いつでも時鳥が啼いておる」
確かに、ホトトギスの鳴き声が聞こえます。本当だ…。
来てよかった…。

あ、いや、しかし殿、もう階段はご勘弁下さいませ…!




その他にも、歴代藩主の霊廟が続きます。
途中で葬礼の形式が変化するなど、文化の変遷が見てとれ、いずれも興味深いです。

そして、また階段。敷石は当時のものあるとか。
歴史の浪漫に触れるには、強靭な足腰と健康な肉体が必須のようです…。

そして横には、北海道では見られない竹林(ちくりん)が。
と言うと、愛知出身の我が親友からすかさず「竹藪(たけやぶ)だ」と突っ込みが返されます。これだけは譲れないそうです。
なのでこのあとも延々と「竹林」「竹藪」というやり取りが繰り返されたのでした。



そして最後は、入口に鎮座する「穴蔵神社」へ。
米沢にあった伊達家の守護神をここに遷座したものだそうです。政宗正室の愛姫も安産の神として篤く信仰したと伝わります。
そしてまた坂道…。いったいどれほど上り下りしたのでしょう。仙台は平野ではなかったのですか?
この日はこれで夕方となったため、その後牛タンを食しゆっくり。
明日は最終日、さらに「おくのほそ道」を辿ります。
旅の3日目からは仙台における「おくのほそ道」の足跡をたどり、併せて仙台藩特に伊達政宗にまつわる名所を巡ります。
旅を愛しこれを記録した松尾芭蕉は、我々の偉大なる先達。師匠、と呼ばせて頂きます。

最初に向かったのは、仙台城の北西に位置する「亀岡八幡宮」です。
古墳時代の第15代天皇・応神天皇と、その母・神功皇后らを祀るこの神社は、源義経が討ち取られ奥州藤原氏が滅亡した1189年に伊達宗家初代・伊達朝宗によって勧進され、世に言う「伊達騒動」によって家督を相続した仙台藩4代藩主・伊達綱村の時代・1681年にこの地へ移されたそうです。

1689年、師匠・松尾芭蕉と門人・河合曾良は江戸を出発し、1か月余りの旅を経てこの仙台に到着。そしてまだ造営されて日の浅かったこの八幡宮を訪れました。

「おくのほそ道」本文では触れられていないものの、随行記である「曾良旅日記」五月の中では以下のような記述があります。
六日 天気能。亀が岡八幡へ詣。

何と、今日も5月6日ではありませんか。しかも師匠たちと同じく、男2人で参りました。
旧暦と新暦の差があるので明確に同じ日ではありませんが、何という奇縁!まさに奇遇!

しかし、喜び勇んで進んだ我々を待ち受けていたのは、表参道の階段でした。
なかなか急で、しかもけっこうな高低差があります。とはいえまだこの時点では風情に酔いさほど気にしていませんでしたが…

階段を登った踊り場のような空間の先を見て、我々は言葉を失いました。
「な、何だこれ!?高過ぎる!急すぎる!」
恐ろしいまでの階段がそこにありました。上に何があるのか、さっぱり見通せません。
100段や150段ではきかなそうです。高さも数階建てのビルくらいあります。しかも傾斜が非常に急です。
師匠たちもこんなところを登ったのか?しかもスニーカーじゃなく草履で?それも国分町からここまで歩いてきて!?我々と歳変わらないのに?どんな体力してるの??

とはいえこうなれば行くしかありません。段数を数えながら登っていきます。
途端に息が上がります。100段上がって休憩しますが、平らな部分があまりありません。微妙に崩れているところもあります。
明らかに最近の階段ではありません。もしや当時のモノか?師匠たちと同じ階段を登っているのか?(あとで調べたらそうでした。江戸時代からのものだそうです)
私は高所恐怖症ではありませんが、振り返ると急傾斜に飲み込まれて身体が傾いてしまいそうで、とてもではありませんが振り返ることができません。意を決して、さらに先へ。

180段以上、一番下からだと200数十段登ったでしょうか。ようやく上まで着き眼下を見ると、ご覧のありさま。スキーで降りるにも勇気がいるような凄まじい光景です。

ところが何と、まだありました。さすがに神社は見えてきましたが、まだある…。愕然です。
後で調べると、かつては365段、今でも330段以上あるそうです。
師匠が訪れた頃の遺物は、最初の鳥居とこの石段のみの模様。石段は「出世階段」とも言われ、仙台では最も長い階段だそうです。そりゃそうだ。

そして遂に、ついに辿り着きました。師匠、のっけからこれはキツいです…。
お参りし、社務所で御朱印を頂戴してから、
「ど、どうやって車に戻る?」
「あれを下りるか?」
「いや、さすがにあれは怖すぎる」
「怖いもそうだが、これほどの位置エネルギーをこの水平距離で運動エネルギーに変換して下半身に受け止めたら、壊れるんじゃないか?」
「無茶すぎる、遠回りでも裏参道から帰ろう」
「そうだ、そうしよう」
こうして、「注文の多い料理店」の猟師二人よろしく軟弱者であることを惜しげもなく露呈した我々は、裏参道から出て坂道を下りることにしました。ちなみに裏参道を使うなら車でも上まで登ることは可能です。


しかし、その坂道もご覧の急傾斜。どれだけの勾配かは写真でもお判りでしょう。
背後のマンションは、坂の上だと3階が入口になっています。そんな大きい建物でもないのに…。
そして歩いていると、坂を上り下りする大学生らしい青年に出会いました。運動部恐るべし。

車へ戻った我々は、次に仙台城を目指します。
通りは緑の宝庫。さすがは杜の都・仙台。街路樹の素晴らしさは他に例を見ません。

山城である仙台城を目指して、坂を上ります。
路は登っては下り、左右に曲がりくねっています。
私は城を訪問する時、必ずその城を攻略する目線で見るのですが、
この坂の作りは城を目指す人間にとって悪路そのもの。
無駄に上り下りさせられて体力を奪われ、要所要所では上から攻撃を仕掛けられる可能性が大いにあります。
思えばかつて訪れた姫路城も、このように天守へ向かうルートは複雑怪奇で、しかも至る所から塀に空いた銃身を出す穴が見えていました。

しかし今回は車。無事本丸跡に辿り着きました。まずは宮城県護国神社に参拝。

お参りのあと御朱印を頂き、博物館へ。護国神社は戦没者を祀る神社なので、戊辰戦争から西南戦争、日清・日露戦争から二つの世界大戦まで、近代日本の歴史を綴る展示物を見ることができました。
特攻で亡くなった方に関する展示や、軍艦の模型に至るまで、様々なものを見て学ぶことができます。教科書なら数行で終わってしまう内容を、つぶさに感じることができる、たいへんよい展示でした。
そしていよいよ、仙台を一望できる本丸跡へ!


が、崖じゃないか!こ、これは攻撃不可能…!
仙台城がどこにあるかは、もちろん事前に知っていました。しかし、これほど高低差のある崖ギリギリにあったとは知らず。
崖下には広瀬川が流れ、その向こうにある広場で行われているイベントの声がここまで聞こえてきます。
ここから攻めようと思っても、下にいる軍勢は丸見えでしょうし、声もしっかり聞こえます。
おまけに川を渡らねばならず、その後は到底登れなさそうな崖が控えています。石でも落とせば簡単に撃退できそうです。
これが戦国の山城か…!


そして、伊達政宗像と対面することができました。地震で修理に入っていましたが、年度初め頃に戻って来たそうです。
伊達政宗については語るまでもないでしょうが、伊達家のみならずその家臣団も北海道開拓に深くかかわっています。
伊達政宗の片腕・片倉景綱の子孫は初代にあやかって代々小十郎を名乗り、幕末から明治にかけて北海道開拓を行いました。
何より札幌市白石区は片倉家の本拠地白石に拠るものであり、豊平・平岸・月寒・手稲といった地区も片倉家の当主が戸長を務めた地。私の祖先が入植した栗山も、角田からの入植者によって拓かれました。
伊達政宗公なかりせば、今の私はありません。


本丸の遺構も説明書きとともに見て回ることができます。
各部屋の大きさも畳の大きさで表示されており、実際にその場に立つことによって広さを実感できます。

そしてこの日最後に向かったのは、伊達政宗墓所「瑞鳳殿」。
師匠たち「おくのほそ道」一行は八幡宮のあと仙台城へ向かい、にわか雨に降られ茶室で時を待ちそのまま引き揚げたようですが、我々はさらにその先へ。
経ケ峯に墓所を築くよう命じたのは御本人だといいます。ここに来る前、ドラマ「独眼竜政宗」を視聴し、しっかり予習してまいりました。



そしてやって来たはいいのですが、
え?また急坂ですか?ここも登るのか…。
そういえば、さっき仙台城から川の向こう側に見えてましたね。

まずは入口にある「瑞鳳寺」へ。
山号は正宗山、臨済宗の寺院で伊達家の菩提寺です。墓所と同じく、二代藩主・伊達忠宗によって創建されました。

瑞鳳殿をはじめとした墓所は太平洋戦争で消失しましたが、昭和時代に再建。
その際の発掘調査で遺骨や副葬品が出土しています。
見学できる資料館があるのですが、伊達政宗本人の御遺骨の一部が展示されていました。
まさか殿に御目通りが叶うとは、恐悦至極に存じ奉ります。戦国大名御本人にお会いしたのは初めてです。


そしていよいよ霊廟の御前に。
落慶記念で御開帳されており、石室の直上に安置されている伊達政宗像を拝する機会に恵まれました。
建物こそ再建されたものですが、殿は間違いなくこの下でお休みになられています。
体育会系ながら風流でたいそうグルメな方だったと伺っていますが、いろいろとお話などしてみたいものですね。特に中部圏出身の御大将あたりをどのように思われていたのか…。

両脇には15人の殉死した家臣・陪審の塔が並びます。
4代将軍・徳川家綱の時代(1663年の武家諸法度改訂)に殉死が禁止されますが(明文化は5代将軍・徳川綱吉による1683年の改訂)、伊達政宗死去の1636年ではまだその文化がありました。ちなみにその前年・1635年の武家諸法度改訂では、参勤交代が制度化されています。

瑞鳳殿に向かい合うように存在するのが、満海上人供養碑です。
「儂は幼少の砌、満海上人の申し子と云われてのう…、その満海上人が生きながらに入寂されたのが、ここじゃ」
(「独眼竜政宗」第50話より)

「あぁ、ここは極楽じゃ。いつでも時鳥が啼いておる」
確かに、ホトトギスの鳴き声が聞こえます。本当だ…。
来てよかった…。

あ、いや、しかし殿、もう階段はご勘弁下さいませ…!




その他にも、歴代藩主の霊廟が続きます。
途中で葬礼の形式が変化するなど、文化の変遷が見てとれ、いずれも興味深いです。

そして、また階段。敷石は当時のものあるとか。
歴史の浪漫に触れるには、強靭な足腰と健康な肉体が必須のようです…。

そして横には、北海道では見られない竹林(ちくりん)が。
と言うと、愛知出身の我が親友からすかさず「竹藪(たけやぶ)だ」と突っ込みが返されます。これだけは譲れないそうです。
なのでこのあとも延々と「竹林」「竹藪」というやり取りが繰り返されたのでした。



そして最後は、入口に鎮座する「穴蔵神社」へ。
米沢にあった伊達家の守護神をここに遷座したものだそうです。政宗正室の愛姫も安産の神として篤く信仰したと伝わります。
そしてまた坂道…。いったいどれほど上り下りしたのでしょう。仙台は平野ではなかったのですか?
この日はこれで夕方となったため、その後牛タンを食しゆっくり。
明日は最終日、さらに「おくのほそ道」を辿ります。