歴史を巡る~北海道から名古屋・仙台⑤ 「おくのほそ道から震災遺構へ」
こんにちは、則武です。いよいよ旅も最終日です。
夜の飛行機に乗るまでの間、時を惜しんでさらに「おくのほそ道」巡礼を続け、最後は震災遺構も見学いたします。
最初に向かうのは、仙台東照宮です。
「おくのほそ道」本文に言及はありませんが、「曾良旅日記」には
七日 快晴。加衛門同道にて権現宮を拝。
とあり、ここを訪問したことがわかります。
例によって同じ5月7日に参りましたが、師匠の時と異なり本日は生憎の雨模様。
しかし、雨の寺社仏閣は実に趣深いものがあります。

「東照宮」は、あの徳川家康を「東照大権現」として祀る神社で、家康墓所の日光東照宮をはじめ全国各地にあります。
この地は実際、1592年に家康が伊達政宗とともに訪問した地であるとか。
写真の本殿とその周囲を隔てる透塀をはじめとした建築物は、1654年の創建時からのもので国の重要文化財に指定されております。
もちろん、師匠御一行が訪問した際のものがそのまま残っています。
本殿に立ち入ることはできないので、拝殿から参拝することになります。

もちろん、いたるところに徳川家の家紋である葵があしらわれています。

はっきり、「御祭神 徳川家康公」と書かれています。
授業やテストでさんざん目にしてきた徳川家康その人を、神として参拝したのは私も初めてでした。

そして御遺訓。世の中が変わっても、人として、あるいは人の上に立つものとして求められることは変わらないのですね。


そして例によって、長い階段があります。
昨日の階段は一気に高低差60mを登るというとんでもないものでしたが、ここも20mはあるのではないでしょうか。

唐門は年に一度だけ開くそうです。参拝の際は、拝殿からこの唐門に向かって拝礼することになります。

続いて向かったのは、仙台市宮城野区榴ケ岡(つつじがおか)の「榴岡天満宮」です。そのあとさらに、宮城野区木ノ下にある「薬師堂」へ。
こちらは「おくのほそ道」本文で触れられている地です。
宮城野の萩茂りあひて、秋の景色思ひやらるる。玉田・よこ野、つつじが岡はあせび咲ころ也。日影ももらぬ松の林に入て、ここを木の下と云とぞ。昔もかく露ふかければこそ、「みさぶらひみかさ」とはよみたれ。薬師堂・天神の御社なと拝て、その日はくれぬ。
ここでいう「天神」こそ、当時東照宮造営に伴ってこの地へ遷座して間もないこの天満宮でしょう。

天満宮の境内には数々の石碑があります。そのうちの一つが、

この句碑は、松尾芭蕉五十回忌に際し、1743年につくられた仙台最古の芭蕉句碑だそうです。
あかあかと日はつれなくも秋の風
「おくのほそ道」道中の金沢で詠まれ、本文に採用された句が刻まれています。

元禄文化の代表的俳諧師が立ち寄った地ということで江戸時代には既に聖地巡礼の対象となっていたのか、実にたくさんの方々の句碑が並んでいます。

そしてここは天満宮、もちろんこの歌碑もありました。
東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ


学問の神、菅原道真公。天満宮の御祭神は、この方であります。

もちろん、前年度への御礼と今年度の御加護をお祈り申し上げました。
学習塾に携わる者として、菅原道真は単に遣唐使を廃止した人物に留まらず。


そして、イーグルスの本拠地バックスクリーン裏手・木ノ下にある薬師堂へ。
ここは、奈良時代に全国へ置かれた国分寺で、もちろん創建は聖武天皇の御代、740年頃。陸奥国分寺として現役の寺院です。
現在の宗派は真言宗で、堂の中からは真言を唱える僧侶の読経が聞こえてきます。
写真の薬師堂は1607年に建立され、「おくのほそ道」一行もこの堂を見たということでしょう。

かつては天平文化の建築らしく七重塔があったそうですが、落雷によって平安時代に消失し、いまはそのあとのみが残ります。
境内は非常に広いです。国分寺というものがどれほどの重要性を持っていたか、その広大さでよくわかります。
ちなみに国分尼寺もこの近くにあったそうで、案内が出ていました。

こちらも江戸時代建立の、仁王門。薬師堂とともに重要文化財です。

足元には、創建時に南大門が建っていたことの証である土台があります。踏んでいいの?というくらい自然に足元にあります。

そして門の中にはその名の通り、一対の金剛力士像があります。
実にいろいろな時代の文化を堪能できます。


そして、芭蕉句碑がありました。「おくのほそ道」本文<宮城野>の句は、ここの様子と現地人・加衛門さんから送られた風流な草鞋から詠んだもののようです。
句碑には、まさにその句が刻まれています。
あやめ草足に結ん草鞋の緒

そして、句碑のすぐ横にアヤメが植えられていました。
さてここでいったん仙台を出て、今度は多賀城に向かいます。
「おくのほそ道」松島の章の前に<壺の碑(いしぶみ)>というのがありますが、
壺碑 市川村多賀城に有
その多賀城市市川にある「陸奥総社宮」を参拝しようと思います。

多賀城は奈良から平安にかけて国府が置かれた、かつてのこの地方の中心。
やがて政庁は移りましたが、来年は多賀城創建1300年にあたるそうで、いたるところに関連イベントなどの告知が見られます。

街から離れ参拝客の少ない静やかな境内もよいものです。幸い、雨も上がってきました。

境内を囲む杉林が歴史を物語ります。なにより、

紅葉・銀杏など実に多くの木々に囲まれています。風流そのものな神社でした。

そして、「おくのほそ道」一行が松島へ辿り着く前に立ち寄った地・塩釜へやってきました。
門前にあるこのお菓子屋さんがすでに気分を盛り上げてくれます。

境内の駐車場に車を停めて歩いていくと、ネコのお出迎えを受けました。たいへんに人馴れしており、ニャーニャー言いながら近寄ってきます。かわいいことこの上ありません。


こちらの建物は御文庫。室町時代の建造で、現在ある建築物では一番古いとか。
北海道ではこんなにさりげなく室町期の建物があるなんてことは考えられません。すごいことですね。

まずは志波彦神社(しわひこじんじゃ)へ。
中央の縄は、決まった手順でくぐり参拝するとご利益があるのだそうです。

ここは2つの神社が隣り合っています。そのうちの一つがこの志波彦神社です。

拝礼し門をあとにすると、正面に見えたのは松島の風景でした。
今回は塩釜までと思っていたので、これは幸運でした。


そしていよいよ、鹽竈(しおがま)神社へ。
早朝、塩がまの明神に詣。国守再興せられて、宮柱ふとしく、彩椽きらびやかに、石の階九仭に重り…
ですから師匠、階段はもう結構です…


今回、「おくのほそ道」の名跡を辿るのはこれが最後になります。師匠たちはこのあと松島、石巻などを巡り、いよいよ教科書でおなじみの平泉へ至るわけです。

境内には、残念ながら時期を過ぎているものの鹽竈櫻(しおがまざくら)が。もともとは松島の月ではなく、この鹽竈櫻が目的であったとの話もあります。

300年以上前の旅路に思いをいたしつつ、「おくのほそ道」巡礼はここに終わりました。
そして最後にもう一つ、空港へ向かう途中で立ち寄ったところがありました。
震災遺構である「荒浜小学校」です。


仙台港を過ぎ南に下ると、津波の際の避難経路を示す看板や、避難のために建てられた建築物が目に入ってきました。
周囲は明らかに、建物が少なくなっています。
地図で見ると、その近辺一帯が津波に襲われたことが一目でわかる状況でした。

そんな中で今も残る、荒浜小学校に到着。

校舎の2階部分に、津波が到達したことを示す看板が掲出されています。土地の標高を加えると、到達した津波の高さは10mをはるかに越えていたとか。

階上のベランダなどが津波の影響で破壊されており、爪痕が生々しく残っています。


中に入ると1階は天井が壊れており、


2階の天井にまで津波のしぶきがかかった跡が残っています。

2階廊下のキャビネットには、錆などの形で浸水したラインがわかる跡が残されておりました。

そして時計が、地震発生時の時間で止まってしまっています。

学校は周辺住民が少なくなったことにより統合され、現在この校舎は使われていません。
そして学校の回りは一部の木々以外道路と田畑ばかり、住居がほとんど見当たりません。
道路は、いずれも将来的な防災の観点から嵩上げがなされていました。
自然の驚異と、その中で懸命に生きようとする人々の姿。
環太平洋造山帯の上にあるこの国に住む以上、震災はいずれ訪れるものですが、
せめてもの教訓と対策の重要性を感じるに十分なものを見せていただきました。


そして、長いようで短かった旅もいよいよ終わり。飛行機で北海道に戻ります。
教科書に載っていることだけではわからないものが、世の中にはたくさん散らばっているのです。
みなさんも知識を得たら、ぜひそれを胸に外へ出てみてください。
きっと、新たな発見があるはずです。
夜の飛行機に乗るまでの間、時を惜しんでさらに「おくのほそ道」巡礼を続け、最後は震災遺構も見学いたします。
最初に向かうのは、仙台東照宮です。
「おくのほそ道」本文に言及はありませんが、「曾良旅日記」には
七日 快晴。加衛門同道にて権現宮を拝。
とあり、ここを訪問したことがわかります。
例によって同じ5月7日に参りましたが、師匠の時と異なり本日は生憎の雨模様。
しかし、雨の寺社仏閣は実に趣深いものがあります。

「東照宮」は、あの徳川家康を「東照大権現」として祀る神社で、家康墓所の日光東照宮をはじめ全国各地にあります。
この地は実際、1592年に家康が伊達政宗とともに訪問した地であるとか。
写真の本殿とその周囲を隔てる透塀をはじめとした建築物は、1654年の創建時からのもので国の重要文化財に指定されております。
もちろん、師匠御一行が訪問した際のものがそのまま残っています。
本殿に立ち入ることはできないので、拝殿から参拝することになります。

もちろん、いたるところに徳川家の家紋である葵があしらわれています。

はっきり、「御祭神 徳川家康公」と書かれています。
授業やテストでさんざん目にしてきた徳川家康その人を、神として参拝したのは私も初めてでした。

そして御遺訓。世の中が変わっても、人として、あるいは人の上に立つものとして求められることは変わらないのですね。


そして例によって、長い階段があります。
昨日の階段は一気に高低差60mを登るというとんでもないものでしたが、ここも20mはあるのではないでしょうか。

唐門は年に一度だけ開くそうです。参拝の際は、拝殿からこの唐門に向かって拝礼することになります。

続いて向かったのは、仙台市宮城野区榴ケ岡(つつじがおか)の「榴岡天満宮」です。そのあとさらに、宮城野区木ノ下にある「薬師堂」へ。
こちらは「おくのほそ道」本文で触れられている地です。
宮城野の萩茂りあひて、秋の景色思ひやらるる。玉田・よこ野、つつじが岡はあせび咲ころ也。日影ももらぬ松の林に入て、ここを木の下と云とぞ。昔もかく露ふかければこそ、「みさぶらひみかさ」とはよみたれ。薬師堂・天神の御社なと拝て、その日はくれぬ。
ここでいう「天神」こそ、当時東照宮造営に伴ってこの地へ遷座して間もないこの天満宮でしょう。

天満宮の境内には数々の石碑があります。そのうちの一つが、

この句碑は、松尾芭蕉五十回忌に際し、1743年につくられた仙台最古の芭蕉句碑だそうです。
あかあかと日はつれなくも秋の風
「おくのほそ道」道中の金沢で詠まれ、本文に採用された句が刻まれています。

元禄文化の代表的俳諧師が立ち寄った地ということで江戸時代には既に聖地巡礼の対象となっていたのか、実にたくさんの方々の句碑が並んでいます。

そしてここは天満宮、もちろんこの歌碑もありました。
東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ


学問の神、菅原道真公。天満宮の御祭神は、この方であります。

もちろん、前年度への御礼と今年度の御加護をお祈り申し上げました。
学習塾に携わる者として、菅原道真は単に遣唐使を廃止した人物に留まらず。


そして、イーグルスの本拠地バックスクリーン裏手・木ノ下にある薬師堂へ。
ここは、奈良時代に全国へ置かれた国分寺で、もちろん創建は聖武天皇の御代、740年頃。陸奥国分寺として現役の寺院です。
現在の宗派は真言宗で、堂の中からは真言を唱える僧侶の読経が聞こえてきます。
写真の薬師堂は1607年に建立され、「おくのほそ道」一行もこの堂を見たということでしょう。

かつては天平文化の建築らしく七重塔があったそうですが、落雷によって平安時代に消失し、いまはそのあとのみが残ります。
境内は非常に広いです。国分寺というものがどれほどの重要性を持っていたか、その広大さでよくわかります。
ちなみに国分尼寺もこの近くにあったそうで、案内が出ていました。

こちらも江戸時代建立の、仁王門。薬師堂とともに重要文化財です。

足元には、創建時に南大門が建っていたことの証である土台があります。踏んでいいの?というくらい自然に足元にあります。

そして門の中にはその名の通り、一対の金剛力士像があります。
実にいろいろな時代の文化を堪能できます。


そして、芭蕉句碑がありました。「おくのほそ道」本文<宮城野>の句は、ここの様子と現地人・加衛門さんから送られた風流な草鞋から詠んだもののようです。
句碑には、まさにその句が刻まれています。
あやめ草足に結ん草鞋の緒

そして、句碑のすぐ横にアヤメが植えられていました。
さてここでいったん仙台を出て、今度は多賀城に向かいます。
「おくのほそ道」松島の章の前に<壺の碑(いしぶみ)>というのがありますが、
壺碑 市川村多賀城に有
その多賀城市市川にある「陸奥総社宮」を参拝しようと思います。

多賀城は奈良から平安にかけて国府が置かれた、かつてのこの地方の中心。
やがて政庁は移りましたが、来年は多賀城創建1300年にあたるそうで、いたるところに関連イベントなどの告知が見られます。

街から離れ参拝客の少ない静やかな境内もよいものです。幸い、雨も上がってきました。

境内を囲む杉林が歴史を物語ります。なにより、

紅葉・銀杏など実に多くの木々に囲まれています。風流そのものな神社でした。

そして、「おくのほそ道」一行が松島へ辿り着く前に立ち寄った地・塩釜へやってきました。
門前にあるこのお菓子屋さんがすでに気分を盛り上げてくれます。

境内の駐車場に車を停めて歩いていくと、ネコのお出迎えを受けました。たいへんに人馴れしており、ニャーニャー言いながら近寄ってきます。かわいいことこの上ありません。


こちらの建物は御文庫。室町時代の建造で、現在ある建築物では一番古いとか。
北海道ではこんなにさりげなく室町期の建物があるなんてことは考えられません。すごいことですね。

まずは志波彦神社(しわひこじんじゃ)へ。
中央の縄は、決まった手順でくぐり参拝するとご利益があるのだそうです。

ここは2つの神社が隣り合っています。そのうちの一つがこの志波彦神社です。

拝礼し門をあとにすると、正面に見えたのは松島の風景でした。
今回は塩釜までと思っていたので、これは幸運でした。


そしていよいよ、鹽竈(しおがま)神社へ。
早朝、塩がまの明神に詣。国守再興せられて、宮柱ふとしく、彩椽きらびやかに、石の階九仭に重り…
ですから師匠、階段はもう結構です…


今回、「おくのほそ道」の名跡を辿るのはこれが最後になります。師匠たちはこのあと松島、石巻などを巡り、いよいよ教科書でおなじみの平泉へ至るわけです。

境内には、残念ながら時期を過ぎているものの鹽竈櫻(しおがまざくら)が。もともとは松島の月ではなく、この鹽竈櫻が目的であったとの話もあります。

300年以上前の旅路に思いをいたしつつ、「おくのほそ道」巡礼はここに終わりました。
そして最後にもう一つ、空港へ向かう途中で立ち寄ったところがありました。
震災遺構である「荒浜小学校」です。


仙台港を過ぎ南に下ると、津波の際の避難経路を示す看板や、避難のために建てられた建築物が目に入ってきました。
周囲は明らかに、建物が少なくなっています。
地図で見ると、その近辺一帯が津波に襲われたことが一目でわかる状況でした。

そんな中で今も残る、荒浜小学校に到着。

校舎の2階部分に、津波が到達したことを示す看板が掲出されています。土地の標高を加えると、到達した津波の高さは10mをはるかに越えていたとか。

階上のベランダなどが津波の影響で破壊されており、爪痕が生々しく残っています。


中に入ると1階は天井が壊れており、


2階の天井にまで津波のしぶきがかかった跡が残っています。

2階廊下のキャビネットには、錆などの形で浸水したラインがわかる跡が残されておりました。

そして時計が、地震発生時の時間で止まってしまっています。

学校は周辺住民が少なくなったことにより統合され、現在この校舎は使われていません。
そして学校の回りは一部の木々以外道路と田畑ばかり、住居がほとんど見当たりません。
道路は、いずれも将来的な防災の観点から嵩上げがなされていました。
自然の驚異と、その中で懸命に生きようとする人々の姿。
環太平洋造山帯の上にあるこの国に住む以上、震災はいずれ訪れるものですが、
せめてもの教訓と対策の重要性を感じるに十分なものを見せていただきました。


そして、長いようで短かった旅もいよいよ終わり。飛行機で北海道に戻ります。
教科書に載っていることだけではわからないものが、世の中にはたくさん散らばっているのです。
みなさんも知識を得たら、ぜひそれを胸に外へ出てみてください。
きっと、新たな発見があるはずです。