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歴史を巡る~北海道から名古屋・仙台⑤ 「おくのほそ道から震災遺構へ」

こんにちは、則武です。いよいよ旅も最終日です。

夜の飛行機に乗るまでの間、時を惜しんでさらに「おくのほそ道」巡礼を続け、最後は震災遺構も見学いたします。


最初に向かうのは、仙台東照宮です。

「おくのほそ道」本文に言及はありませんが、「曾良旅日記」には

 七日 快晴。加衛門同道にて権現宮を拝。

とあり、ここを訪問したことがわかります。

例によって同じ5月7日に参りましたが、師匠の時と異なり本日は生憎の雨模様。

しかし、雨の寺社仏閣は実に趣深いものがあります。



「東照宮」は、あの徳川家康を「東照大権現」として祀る神社で、家康墓所の日光東照宮をはじめ全国各地にあります。

この地は実際、1592年に家康が伊達政宗とともに訪問した地であるとか。

写真の本殿とその周囲を隔てる透塀をはじめとした建築物は、1654年の創建時からのもので国の重要文化財に指定されております。

もちろん、師匠御一行が訪問した際のものがそのまま残っています。

本殿に立ち入ることはできないので、拝殿から参拝することになります。



もちろん、いたるところに徳川家の家紋である葵があしらわれています。



はっきり、「御祭神 徳川家康公」と書かれています。

授業やテストでさんざん目にしてきた徳川家康その人を、神として参拝したのは私も初めてでした。



そして御遺訓。世の中が変わっても、人として、あるいは人の上に立つものとして求められることは変わらないのですね。




そして例によって、長い階段があります。

昨日の階段は一気に高低差60mを登るというとんでもないものでしたが、ここも20mはあるのではないでしょうか。



唐門は年に一度だけ開くそうです。参拝の際は、拝殿からこの唐門に向かって拝礼することになります。






続いて向かったのは、仙台市宮城野区榴ケ岡(つつじがおか)の「榴岡天満宮」です。そのあとさらに、宮城野区木ノ下にある「薬師堂」へ。

こちらは「おくのほそ道」本文で触れられている地です。

 宮城野の萩茂りあひて、秋の景色思ひやらるる。玉田・よこ野、つつじが岡はあせび咲ころ也。日影ももらぬ松の林に入て、ここを木の下と云とぞ。昔もかく露ふかければこそ、「みさぶらひみかさ」とはよみたれ。薬師堂・天神の御社なと拝て、その日はくれぬ。

ここでいう「天神」こそ、当時東照宮造営に伴ってこの地へ遷座して間もないこの天満宮でしょう。



天満宮の境内には数々の石碑があります。そのうちの一つが、



この句碑は、松尾芭蕉五十回忌に際し、1743年につくられた仙台最古の芭蕉句碑だそうです。

 あかあかと日はつれなくも秋の風

「おくのほそ道」道中の金沢で詠まれ、本文に採用された句が刻まれています。



元禄文化の代表的俳諧師が立ち寄った地ということで江戸時代には既に聖地巡礼の対象となっていたのか、実にたくさんの方々の句碑が並んでいます。



そしてここは天満宮、もちろんこの歌碑もありました。

 東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ




学問の神、菅原道真公。天満宮の御祭神は、この方であります。



もちろん、前年度への御礼と今年度の御加護をお祈り申し上げました。

学習塾に携わる者として、菅原道真は単に遣唐使を廃止した人物に留まらず。






そして、イーグルスの本拠地バックスクリーン裏手・木ノ下にある薬師堂へ。

ここは、奈良時代に全国へ置かれた国分寺で、もちろん創建は聖武天皇の御代、740年頃。陸奥国分寺として現役の寺院です。

現在の宗派は真言宗で、堂の中からは真言を唱える僧侶の読経が聞こえてきます。

写真の薬師堂は1607年に建立され、「おくのほそ道」一行もこの堂を見たということでしょう。



かつては天平文化の建築らしく七重塔があったそうですが、落雷によって平安時代に消失し、いまはそのあとのみが残ります。

境内は非常に広いです。国分寺というものがどれほどの重要性を持っていたか、その広大さでよくわかります。

ちなみに国分尼寺もこの近くにあったそうで、案内が出ていました。



こちらも江戸時代建立の、仁王門。薬師堂とともに重要文化財です。



足元には、創建時に南大門が建っていたことの証である土台があります。踏んでいいの?というくらい自然に足元にあります。



そして門の中にはその名の通り、一対の金剛力士像があります。

実にいろいろな時代の文化を堪能できます。




そして、芭蕉句碑がありました。「おくのほそ道」本文<宮城野>の句は、ここの様子と現地人・加衛門さんから送られた風流な草鞋から詠んだもののようです。

句碑には、まさにその句が刻まれています。

 あやめ草足に結ん草鞋の緒



そして、句碑のすぐ横にアヤメが植えられていました。




さてここでいったん仙台を出て、今度は多賀城に向かいます。

「おくのほそ道」松島の章の前に<壺の碑(いしぶみ)>というのがありますが、

 壺碑 市川村多賀城に有

その多賀城市市川にある「陸奥総社宮」を参拝しようと思います。



多賀城は奈良から平安にかけて国府が置かれた、かつてのこの地方の中心。

やがて政庁は移りましたが、来年は多賀城創建1300年にあたるそうで、いたるところに関連イベントなどの告知が見られます。



街から離れ参拝客の少ない静やかな境内もよいものです。幸い、雨も上がってきました。



境内を囲む杉林が歴史を物語ります。なにより、



紅葉・銀杏など実に多くの木々に囲まれています。風流そのものな神社でした。








そして、「おくのほそ道」一行が松島へ辿り着く前に立ち寄った地・塩釜へやってきました。

門前にあるこのお菓子屋さんがすでに気分を盛り上げてくれます。



境内の駐車場に車を停めて歩いていくと、ネコのお出迎えを受けました。たいへんに人馴れしており、ニャーニャー言いながら近寄ってきます。かわいいことこの上ありません。




こちらの建物は御文庫。室町時代の建造で、現在ある建築物では一番古いとか。

北海道ではこんなにさりげなく室町期の建物があるなんてことは考えられません。すごいことですね。



まずは志波彦神社(しわひこじんじゃ)へ。

中央の縄は、決まった手順でくぐり参拝するとご利益があるのだそうです。



ここは2つの神社が隣り合っています。そのうちの一つがこの志波彦神社です。



拝礼し門をあとにすると、正面に見えたのは松島の風景でした。

今回は塩釜までと思っていたので、これは幸運でした。




そしていよいよ、鹽竈(しおがま)神社へ。

 早朝、塩がまの明神に詣。国守再興せられて、宮柱ふとしく、彩椽きらびやかに、石の階九仭に重り…

ですから師匠、階段はもう結構です…




今回、「おくのほそ道」の名跡を辿るのはこれが最後になります。師匠たちはこのあと松島、石巻などを巡り、いよいよ教科書でおなじみの平泉へ至るわけです。



境内には、残念ながら時期を過ぎているものの鹽竈櫻(しおがまざくら)が。もともとは松島の月ではなく、この鹽竈櫻が目的であったとの話もあります。



300年以上前の旅路に思いをいたしつつ、「おくのほそ道」巡礼はここに終わりました。






そして最後にもう一つ、空港へ向かう途中で立ち寄ったところがありました。

震災遺構である「荒浜小学校」です。





仙台港を過ぎ南に下ると、津波の際の避難経路を示す看板や、避難のために建てられた建築物が目に入ってきました。

周囲は明らかに、建物が少なくなっています。

地図で見ると、その近辺一帯が津波に襲われたことが一目でわかる状況でした。



そんな中で今も残る、荒浜小学校に到着。



校舎の2階部分に、津波が到達したことを示す看板が掲出されています。土地の標高を加えると、到達した津波の高さは10mをはるかに越えていたとか。



階上のベランダなどが津波の影響で破壊されており、爪痕が生々しく残っています。




中に入ると1階は天井が壊れており、




2階の天井にまで津波のしぶきがかかった跡が残っています。



2階廊下のキャビネットには、錆などの形で浸水したラインがわかる跡が残されておりました。



そして時計が、地震発生時の時間で止まってしまっています。



学校は周辺住民が少なくなったことにより統合され、現在この校舎は使われていません。

そして学校の回りは一部の木々以外道路と田畑ばかり、住居がほとんど見当たりません。

道路は、いずれも将来的な防災の観点から嵩上げがなされていました。

自然の驚異と、その中で懸命に生きようとする人々の姿。

環太平洋造山帯の上にあるこの国に住む以上、震災はいずれ訪れるものですが、

せめてもの教訓と対策の重要性を感じるに十分なものを見せていただきました。




そして、長いようで短かった旅もいよいよ終わり。飛行機で北海道に戻ります。

教科書に載っていることだけではわからないものが、世の中にはたくさん散らばっているのです。

みなさんも知識を得たら、ぜひそれを胸に外へ出てみてください。

きっと、新たな発見があるはずです。


歴史を巡る~北海道から名古屋・仙台④ 「おくのほそ道、独眼竜政宗」

こんにちは、則武です。

旅の3日目からは仙台における「おくのほそ道」の足跡をたどり、併せて仙台藩特に伊達政宗にまつわる名所を巡ります。

旅を愛しこれを記録した松尾芭蕉は、我々の偉大なる先達。師匠、と呼ばせて頂きます。




最初に向かったのは、仙台城の北西に位置する「亀岡八幡宮」です。

古墳時代の第15代天皇・応神天皇と、その母・神功皇后らを祀るこの神社は、源義経が討ち取られ奥州藤原氏が滅亡した1189年に伊達宗家初代・伊達朝宗によって勧進され、世に言う「伊達騒動」によって家督を相続した仙台藩4代藩主・伊達綱村の時代・1681年にこの地へ移されたそうです。



1689年、師匠・松尾芭蕉と門人・河合曾良は江戸を出発し、1か月余りの旅を経てこの仙台に到着。そしてまだ造営されて日の浅かったこの八幡宮を訪れました。



「おくのほそ道」本文では触れられていないものの、随行記である「曾良旅日記」五月の中では以下のような記述があります。

 六日 天気能。亀が岡八幡へ詣。



何と、今日も5月6日ではありませんか。しかも師匠たちと同じく、男2人で参りました。

旧暦と新暦の差があるので明確に同じ日ではありませんが、何という奇縁!まさに奇遇!



しかし、喜び勇んで進んだ我々を待ち受けていたのは、表参道の階段でした。

なかなか急で、しかもけっこうな高低差があります。とはいえまだこの時点では風情に酔いさほど気にしていませんでしたが…

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階段を登った踊り場のような空間の先を見て、我々は言葉を失いました。

「な、何だこれ!?高過ぎる!急すぎる!」

恐ろしいまでの階段がそこにありました。上に何があるのか、さっぱり見通せません。

100段や150段ではきかなそうです。高さも数階建てのビルくらいあります。しかも傾斜が非常に急です。

師匠たちもこんなところを登ったのか?しかもスニーカーじゃなく草履で?それも国分町からここまで歩いてきて!?我々と歳変わらないのに?どんな体力してるの??

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とはいえこうなれば行くしかありません。段数を数えながら登っていきます。

途端に息が上がります。100段上がって休憩しますが、平らな部分があまりありません。微妙に崩れているところもあります。

明らかに最近の階段ではありません。もしや当時のモノか?師匠たちと同じ階段を登っているのか?(あとで調べたらそうでした。江戸時代からのものだそうです)

私は高所恐怖症ではありませんが、振り返ると急傾斜に飲み込まれて身体が傾いてしまいそうで、とてもではありませんが振り返ることができません。意を決して、さらに先へ。

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180段以上、一番下からだと200数十段登ったでしょうか。ようやく上まで着き眼下を見ると、ご覧のありさま。スキーで降りるにも勇気がいるような凄まじい光景です。



ところが何と、まだありました。さすがに神社は見えてきましたが、まだある…。愕然です。

後で調べると、かつては365段、今でも330段以上あるそうです。

師匠が訪れた頃の遺物は、最初の鳥居とこの石段のみの模様。石段は「出世階段」とも言われ、仙台では最も長い階段だそうです。そりゃそうだ。



そして遂に、ついに辿り着きました。師匠、のっけからこれはキツいです…。

お参りし、社務所で御朱印を頂戴してから、

「ど、どうやって車に戻る?」
「あれを下りるか?」
「いや、さすがにあれは怖すぎる」
「怖いもそうだが、これほどの位置エネルギーをこの水平距離で運動エネルギーに変換して下半身に受け止めたら、壊れるんじゃないか?」
「無茶すぎる、遠回りでも裏参道から帰ろう」
「そうだ、そうしよう」

こうして、「注文の多い料理店」の猟師二人よろしく軟弱者であることを惜しげもなく露呈した我々は、裏参道から出て坂道を下りることにしました。ちなみに裏参道を使うなら車でも上まで登ることは可能です。




しかし、その坂道もご覧の急傾斜。どれだけの勾配かは写真でもお判りでしょう。

背後のマンションは、坂の上だと3階が入口になっています。そんな大きい建物でもないのに…。

そして歩いていると、坂を上り下りする大学生らしい青年に出会いました。運動部恐るべし。


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車へ戻った我々は、次に仙台城を目指します。

通りは緑の宝庫。さすがは杜の都・仙台。街路樹の素晴らしさは他に例を見ません。

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山城である仙台城を目指して、坂を上ります。

路は登っては下り、左右に曲がりくねっています。

私は城を訪問する時、必ずその城を攻略する目線で見るのですが、

この坂の作りは城を目指す人間にとって悪路そのもの。

無駄に上り下りさせられて体力を奪われ、要所要所では上から攻撃を仕掛けられる可能性が大いにあります。

思えばかつて訪れた姫路城も、このように天守へ向かうルートは複雑怪奇で、しかも至る所から塀に空いた銃身を出す穴が見えていました。



しかし今回は車。無事本丸跡に辿り着きました。まずは宮城県護国神社に参拝。



お参りのあと御朱印を頂き、博物館へ。護国神社は戦没者を祀る神社なので、戊辰戦争から西南戦争、日清・日露戦争から二つの世界大戦まで、近代日本の歴史を綴る展示物を見ることができました。

特攻で亡くなった方に関する展示や、軍艦の模型に至るまで、様々なものを見て学ぶことができます。教科書なら数行で終わってしまう内容を、つぶさに感じることができる、たいへんよい展示でした。


そしていよいよ、仙台を一望できる本丸跡へ!




が、崖じゃないか!こ、これは攻撃不可能…!

仙台城がどこにあるかは、もちろん事前に知っていました。しかし、これほど高低差のある崖ギリギリにあったとは知らず。

崖下には広瀬川が流れ、その向こうにある広場で行われているイベントの声がここまで聞こえてきます。

ここから攻めようと思っても、下にいる軍勢は丸見えでしょうし、声もしっかり聞こえます。

おまけに川を渡らねばならず、その後は到底登れなさそうな崖が控えています。石でも落とせば簡単に撃退できそうです。

これが戦国の山城か…!




そして、伊達政宗像と対面することができました。地震で修理に入っていましたが、年度初め頃に戻って来たそうです。

伊達政宗については語るまでもないでしょうが、伊達家のみならずその家臣団も北海道開拓に深くかかわっています。

伊達政宗の片腕・片倉景綱の子孫は初代にあやかって代々小十郎を名乗り、幕末から明治にかけて北海道開拓を行いました。

何より札幌市白石区は片倉家の本拠地白石に拠るものであり、豊平・平岸・月寒・手稲といった地区も片倉家の当主が戸長を務めた地。私の祖先が入植した栗山も、角田からの入植者によって拓かれました。

伊達政宗公なかりせば、今の私はありません。





本丸の遺構も説明書きとともに見て回ることができます。

各部屋の大きさも畳の大きさで表示されており、実際にその場に立つことによって広さを実感できます。





そしてこの日最後に向かったのは、伊達政宗墓所「瑞鳳殿」。

師匠たち「おくのほそ道」一行は八幡宮のあと仙台城へ向かい、にわか雨に降られ茶室で時を待ちそのまま引き揚げたようですが、我々はさらにその先へ。

経ケ峯に墓所を築くよう命じたのは御本人だといいます。ここに来る前、ドラマ「独眼竜政宗」を視聴し、しっかり予習してまいりました。


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そしてやって来たはいいのですが、

え?また急坂ですか?ここも登るのか…。

そういえば、さっき仙台城から川の向こう側に見えてましたね。



まずは入口にある「瑞鳳寺」へ。

山号は正宗山、臨済宗の寺院で伊達家の菩提寺です。墓所と同じく、二代藩主・伊達忠宗によって創建されました。



瑞鳳殿をはじめとした墓所は太平洋戦争で消失しましたが、昭和時代に再建。
その際の発掘調査で遺骨や副葬品が出土しています。

見学できる資料館があるのですが、伊達政宗本人の御遺骨の一部が展示されていました。

まさか殿に御目通りが叶うとは、恐悦至極に存じ奉ります。戦国大名御本人にお会いしたのは初めてです。




そしていよいよ霊廟の御前に。

落慶記念で御開帳されており、石室の直上に安置されている伊達政宗像を拝する機会に恵まれました。

建物こそ再建されたものですが、殿は間違いなくこの下でお休みになられています。

体育会系ながら風流でたいそうグルメな方だったと伺っていますが、いろいろとお話などしてみたいものですね。特に中部圏出身の御大将あたりをどのように思われていたのか…。



両脇には15人の殉死した家臣・陪審の塔が並びます。

4代将軍・徳川家綱の時代(1663年の武家諸法度改訂)に殉死が禁止されますが(明文化は5代将軍・徳川綱吉による1683年の改訂)、伊達政宗死去の1636年ではまだその文化がありました。ちなみにその前年・1635年の武家諸法度改訂では、参勤交代が制度化されています。



瑞鳳殿に向かい合うように存在するのが、満海上人供養碑です。

「儂は幼少の砌、満海上人の申し子と云われてのう…、その満海上人が生きながらに入寂されたのが、ここじゃ」
(「独眼竜政宗」第50話より)



「あぁ、ここは極楽じゃ。いつでも時鳥が啼いておる」

確かに、ホトトギスの鳴き声が聞こえます。本当だ…。
来てよかった…。



あ、いや、しかし殿、もう階段はご勘弁下さいませ…!






その他にも、歴代藩主の霊廟が続きます。
途中で葬礼の形式が変化するなど、文化の変遷が見てとれ、いずれも興味深いです。



そして、また階段。敷石は当時のものあるとか。
歴史の浪漫に触れるには、強靭な足腰と健康な肉体が必須のようです…。



そして横には、北海道では見られない竹林(ちくりん)が。

と言うと、愛知出身の我が親友からすかさず「竹藪(たけやぶ)だ」と突っ込みが返されます。これだけは譲れないそうです。

なのでこのあとも延々と「竹林」「竹藪」というやり取りが繰り返されたのでした。





そして最後は、入口に鎮座する「穴蔵神社」へ。

米沢にあった伊達家の守護神をここに遷座したものだそうです。政宗正室の愛姫も安産の神として篤く信仰したと伝わります。

そしてまた坂道…。いったいどれほど上り下りしたのでしょう。仙台は平野ではなかったのですか?


この日はこれで夕方となったため、その後牛タンを食しゆっくり。

明日は最終日、さらに「おくのほそ道」を辿ります。

歴史を巡る~北海道から名古屋・仙台③ 「星空と夜明け、太平洋と沿岸の風景」

こんにちは、則武です。

今回は旅行記の3回目、仙台への道のりです。


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電照菊やメロン栽培などの施設園芸農業で知られる渥美半島の先端・伊良湖岬を越えて、船は太平洋に出ました。

外洋に出たはずが、進路には灯浮標の光がずっと見えています。

「海の上には、明確な道がある。それも、どこまでも」。初めて知りました。





深夜、浜松の夜景を左に見ながら星を見上げます。

洋上は明りが少なく、月明りで隠されながらも多くの星が見られました。

北斗七星、ポラリス、カペラ、アークトゥルス、アンタレス、デネブ、アルタイル、ベガ…。

その中で月にカメラを向けると、こんなに綺麗に撮影できました。クレーターまでくっきりです。



夜明けが迫る頃に伊豆半島南端の石廊崎を過ぎ、伊豆諸島のうち大島と利島の間を通過します。

利島は標高500メートルほどの円錐形の火山島で、伊豆諸島の有人島では最小の面積。

思いのほか近くを航行し、写真ではわかりにくいですが月明りに照らされシルエットが浮かび上がっていました。


いっぽう大島は教科書でご存じ、マグマの粘り気が柔らかく穏やかな噴火をする三原山で知られる島。

険しい利島と比較して大島は明らかになだらかな形をしています。

そしてその奥には伊豆半島の街の明かりも見えました。

日米和親条約で知られる下田と、温泉地で有名な伊東でしょうか。




やがて船は相模湾の沖合を過ぎ、房総半島の南端・野島埼を越えたあたりでは空が白み始めました。

奥に見える陸地は、もう関東地方です。

北海道の夜明けはまだ寒いですが、さすが暖流が通る南海の海、さほど寒さを感じずデッキにいられます。



昨日の夜から、ほぼ途切れることがなく貨物船の姿が見られます。

世界の移動速度が速くなっても、物流の中心は依然として船舶。

航空機は重量の関係から大量輸送には向いておらず、海運は今も我々の生活を支え続けているのです。


やがて、デッキに多くのお客さんが出てきました。ご来光です。



東の空からゆっくりと昇る太陽。

久しぶりに日の出をずっと見ていましたが、はっきりとわかるくらい太陽の移動がわかります。

これすなわち、地球の自転速度。

その速度はこの北緯35度付近だと、時速1500km、分速では25km、秒速では約410mあまりにもなります。

地球、速すぎ。


実はこの時、定刻よりも30分以上早くこのあたりに到達していました。

南太平洋から流れる黒潮は、潮流の速度が最大で時速8kmほどにもなり、これはこの船の速度の5分の1近くに達します。

地球は西から東に自転しているためこのあたりの潮流もその向きですが、この船はまさに東へ向かっていたので、大幅に増速していたのでした。

まさか、これほど地球の自転を実感することになるとは…。




右前方には、先行する貨物船が見えます。さらに右手にも、非常に大きなコンテナ船が。



これらがどの程度の距離まで見えるかで、実は地球の大きさを計算することができます。

海の上ならではの学習機会ですね。




やがて船は徐々に北へ進路を変えていきます。

見えてきたのは、安房鴨川の街並みのよう。

この裏側に、横須賀や横浜などの首都圏があるわけです。




しばらくすると、多くの釣り船が見えてきました。

千葉県・南房総市のあたりからやってきたのでしょうか。

どうもこのあたりでは鯛などが釣れるようですね。



さらに見ていると、この釣り船たちを遠巻きに見るようにして、水産庁の漁業監視船が。

仙台支部に所属する「むさし」のようです。

大型連休中にも監視とは、密漁防止のためとはいえ頭が下がります。





やがて船は犬吠埼を越え、いよいよ北関東から東北へ。



すっかり好天になりました。絶好の航海日和です。



これはまた珍しい貨物船が。硬翼帆(こうよくほ)と呼ばれる、風力を動力に変える新しいタイプの船です。初めて見ました。



次は、「さんふらわあ さっぽろ」。昨日苫小牧を出て、茨城県の大洗に向かっています。北関東工業地域へ直結する航路です。



さらに、「ほくれん丸」がやってきました。

釧路と茨城県の日立を結ぶ、農産物の運搬船です。

生乳や野菜類の輸送を担う、重要な船舶ですね。





左手には、福島の原子力発電所。

陸上から見ることは叶わない場所ですが、海上からは遠望することができます。





そして船旅最後のクライマックスは、名古屋へ向かう僚船との擦れ違い。

それまで出会ってきた船たちとは比べ物にならない、わずか400mの距離で汽笛を交わし合いながら過ぎていきます。



見るとあちらにもデッキにたくさんの人が。

こちらから手を振り、向こうからも振り返す。まさに一期一会ですね。





長いようで短かった21時間の航海も、まもなく終わり。

リアス海岸の南端たる塩釜・松島のあたりが見えてくると、仙台港です。



夜は星を見上げ地球の大きさを実感しながら、岸や港の特徴を垣間見る。

実に意義深い旅路でした。

ちなみに、潮流の影響もあり実に50分も早く到着しました。




この日は仙台駅近くで夕食などをとり、夜は友人宅に一泊。

明日はいよいよ、「おくのほそ道」巡礼の旅路スタートです。

歴史を巡る~北海道から名古屋・仙台② 「熱田神宮と信長塀、中京工業地帯」

こんにちは、則武です。今回は歴史ツアー2回目です。


名古屋空港からはバスと電車を乗り継ぎ、向かった先は、こちら。

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熱田神宮です。

歴代天皇が代々継いできた三種の神器の一つ「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ、通称・草薙剣(くさなぎのつるぎ)とも)をご神体として祀る神社です。

「天叢雲剣」は「古事記」「日本書紀」にその伝説の記載があり、特にスサノオがヤマタノオロチ退治にあたって入手したこと、ヤマトタケル東征で使用したとされること、壇ノ浦の戦いで形代(かたしろ、いわばレプリカ)が平家滅亡とともに海中へ没したことなどでも知られています。



私も様々な神社を参拝したことがありますが、正直な話ここはそれらと比較して別格中の別格。

思わず身が引き締まります。



境内は非常に広く、北海道でも大規模な北海道神宮と比較してもかなり広いです。

何より荘厳さが違います。

周りにあるものも500年どころか場合によっては1000年規模の歴史を持っていて、

半端ではない歴史の厚みを感じます。

何しろ神話に出てくるだけあって創建がいつかわからない。

神話が創作のものだったとしても、少なくとも飛鳥時代にはこの地にあったようです。

すごいスケールの話です。



その中でも、今回ぜひ目にしたかったのがこちら。



「信長塀」です。



織田信長は1560年旧暦5月19日、今川義元の軍勢が前進したという報に接すると、敦盛を舞った後に午前4時頃清州城を出発。
午前8時にはここ熱田神宮に入り、軍勢を整えて必勝祈願をしたといいます。

その後現在の名古屋鉄道名古屋本線に沿うようにして進軍した織田勢は、午後の悪天候に乗じて桶狭間で今川義元を討ち取りました。



信長塀は戦勝の御礼として奉納されたものだそうで、このように境内の案内にも書かれています。


いま自分が触れているこの塀を、かつて織田信長も触れたかもしれない。

そもそも桶狭間の一戦の朝に、間違いなく信長はここにいた。

歴史のロマンの塊です。






そのほかに、展示物にもこんな文字が。「日本書紀」とあります。

この神宮には14世紀の写本が収蔵されており、歴史資料として貴重です。

その他にも、ご神体が剣ということもあって刀剣が多数収蔵されています。

時間があればもっと見学したいところでした。







さて、名古屋名物のきしめんを食し、次の目的地は名古屋港です。

今日はこのあとフェリーで仙台に向かいます。

このフェリー、仙台経由苫小牧行きなので、そのまま最後まで乗れば北海道に帰れるのですが、今回の利用目的は仙台滞在なので、途中下船です。

出港は19時ですが乗船開始が1時間半前からで、早めに乗船して食事をし、出港時の見学に備えます。



周囲に工場や倉庫などが立ち並ぶ港の一角にあるフェリーターミナル。

貿易額ベースで日本最大の港湾である名古屋港は、その背景として日本最大の工業地帯である中京工業地帯を抱えています。

周囲にはとにかく船舶が多く、連休にもかかわらず活気が感じられます。

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夕方の19時、定刻に出港。

空には金星と月が浮かんでいます。

満月に近いので、航海の最中は海面を明るく照らしてくれることでしょう。

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ほどなく、「名港トリトン」と呼ばれる高速道路の橋梁群のひとつ、「名港西大橋」をくぐります。

ご覧のとおり、高さはギリギリ。

そのはず、この橋はこの太平洋フェリーの通過を想定して設計されており、船のマスト高36メートルに対し橋の主桁高さは38メートル。その差僅か2メートルです。


実はこの船、長さも巨大船の定義ギリギリの199.9メートルになっています。

これは、このあと通過する伊良湖水道や、本州四国連絡橋の架かっている瀬戸内海の特定海域などの航行に制限がつくことを防ぐためのものです。

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次々に、大型コンテナを吊り上げる大規模なクレーン、輸出を待つ大量の自動車、知多半島の製鉄所をはじめとした工場群が見えてきます。

教科書通りです。輸出の多い加工貿易、中京工業地帯の主要生産品である自動車…。

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さらに右舷には、木曽三川のうち長良川と木曽川に挟まれた濃尾平野の輪中地帯にある遊園地「ナガシマスパーランド」、さらにその左には石油化学コンビナートで知られる四日市の明かりが。

あちらは三重県、地方区分でいえば中部ではなく近畿地方になります。

木曽三川が中部と近畿の境目になっており、ちょうどこのあたりがその境界なのですね。



船はこのあと未明にいよいよ太平洋へ。

ここから先の模様は、次回といたします。

歴史を巡る~北海道から名古屋・仙台① 「空から見る日本列島」

こんにちは、則武です。


友人が昨年から仙台に転居し、連休を利用して遊びに行くことになりました。

「ならばせっかくの機会を向学に活かそう」

ということで、実にさまざまに見聞を広げるツアーとすることに。

地理・歴史・理科・国語など、一つの旅で学べることは多彩です。








今回からはその模様をご紹介するとともに、

よろしければ教科書とも照らし合わせながらご覧いただければと思います。




初日、出発は丘珠空港。

この春から運行を開始した名古屋行きを利用します。

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ピンクの飛行機には「ちびまる子ちゃん」のイラストが。

静岡市にある「ちびまる子ちゃんランド」とのタイアップ機です。

この「フジドリームエアラインズ」、そして「ちびまる子ちゃん」の作者である故・さくらももこ先生は、

ともに静岡という縁があります。

機内で提供されたお茶も、しっかり静岡茶でした。


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飛行機は定刻で離陸。

左に旋回して高度を上げていく中、

視界に広がったのは花川・屯田・新琴似など教室のある地域。

画像の左側中央に見えるのが石狩市の紅南小学校、

同じく右側中央が花川北中学校です。

画像の中央にほんのわずかですが花川教室が見えています。

上には防風林もありますね。



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飛行機は速いもので、見慣れた風景からわずかな時間で支笏湖を越え、

30分ほどで次に陸地が見えた時はもう秋田県でした。

日本第2位の広さだった湖を干拓した八郎潟、

さらに秋田平野を過ぎると、大きな山が見えてきました。

東北地方第2位、山形県最高峰の鳥海山です。


霞がかっていて奥にある奥羽山脈は見通せませんが、

手前の出羽山地や月山、朝日岳まではしっかり確認できました。

地図を持って行っているので、景色と照らし合わせます。

このあたりは高度7500メートルを時速750kmくらいで通過しているようです。



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続いて見えてきたのは、越後平野。新潟県です。

中央を流れているのが、日本最長の大河・信濃川。

中央左寄りにあるサッカースタジアムの手前側が、新潟の市街地です。

米どころの越後平野、やはり広く奥まで平地が広がっています。

奥にそびえる関東との境界をなす山地まで、平野は続いていました。

そして反対側の窓からは、佐渡島が見渡せることでしょう。



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このあたりから、徐々に内陸へ入っていきます。

長野市を見渡し、さらに南下すると見えてきたのは諏訪湖。

フォッサマグナの西側を縦に貫く糸魚川静岡構造線と

東西に走る中央構造線が交わる部分にある、

まさに「日本列島を東西南北に引き裂く中心」の窪地、それが諏訪湖です。

画面下の平地は松本盆地ですね。中央高地です。

ここには日本でもっとも標高が高い空港があります。


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その奥、東には噴煙を上げる山がありました。

理科の教科書でお馴染み、安山岩質の日本を代表する活火山の一つ、浅間山です。

手前の色濃い部分がカルデラ壁で、

その奥の窪んだ部分に噴煙を上げる中央火口丘が見えます。

近年でも4、5年に1回は噴火し、こんな遠くからでも噴煙が確認できます。

まさに、生きている山です。



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さらに進むと、日本の屋根・日本アルプスへ。

手前が木曽山脈、奥が赤石山脈です。ちなみに飛騨山脈は足元で見えません。

木曽山脈最高峰の木曽駒ヶ岳、

さらに奥には日本第2位・赤石山脈最高峰の北岳、日本第3位の間ノ岳といった高峰が連なります。

間には伊那・駒ヶ根といった、天竜川が作った谷が続きます。

天竜川はこのあと南に下り、浜松市付近で太平洋に注ぎます。



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そして赤石山脈の奥に、富士山が姿を現しました。

直線距離で130kmほどはあるのですが、

さすがにこれほど高いとしっかり見えますね。

手前の山は日本第7位の赤石岳でしょうか。

3000m級の山がたくさんあります。



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やがて高度を下げた飛行機は、岐阜県の下呂温泉など飛騨川の谷に沿って南下。

濃尾平野に入りました。

空港が見えてくると、左下に山城が。

標高86メートルの小牧山城です。

桶狭間の戦いに勝利し、徳川家康と清州同盟を結んだあと

美濃攻めに合わせて整備された城で、

築城主はまさに織田信長その人。

さらにその後徳川家康が豊臣秀吉と対峙した小牧長久手の戦いでも、

徳川家康がここに本陣を置いたという、由緒ある城です。

確かにここからだと、濃尾平野が見渡せて格好の陣地となったことでしょう。



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そして飛行機は定刻に、愛知県小牧市の名古屋空港へ。

ここには航空自衛隊の基地があり、

先月のスーダン政情不安から退避する日本人を輸送するため

ジブチへ行ったC-130輸送機が駐機している姿も見られました。

中部国際空港の開港に伴って中部地方の中核の座を譲った名古屋空港ですが、

まだまだ重責を担っているのだと実感します。


ここで友人と合流し、次は熱田神宮へ向かいます。その後はフェリーで一路仙台へ。


次回は、桶狭間の戦いにゆかりのある建造物や、中京工業地帯の賑わいなどもご紹介します。
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